戦跡調査 「西古見」

2014年09月25日 | 関連する集落:西古見

平成26年9月9日(火)より、埋蔵文化財分布調査の現地調査を開始しました。

今回は、瀬戸内町『西古見』集落へ向かい、
・戦争遺跡の現状調査
・埋蔵文化財の分布調査 を行いました。


『西古見』集落は、古仁屋から約1時間15分ほどの場所に位置し、奄美大島で最西端の集落です。




『曽津高埼灯台【そっこうさきとうだい】』
明治29年11月25日に奄美大島で一番最初に設置・点灯した由緒ある灯台です。
明治27~28年の日清戦争の影響により建設された灯台のひとつ。
(現在の灯台は、昭和63年に建て替えられたものです)



灯台を囲む塀には、第2次世界大戦の終わり頃、アメリカ軍の機銃掃射を受けた弾痕が現在も残っています。

生々しい痕跡は、他にも残されているということですので、今後も調査をしていきたいと思います。
注)灯台までは、舗装されていない道が続きます。
特に悪天候(雨、強風)時や悪天候直後の通行は危険ですので注意が必要です。



こちらは、観光地として整備されている

『掩蓋式観測所【えんがいしきかんそくじょ】』
大正期に作られた観測所は、一部二階で円形の鉄筋コンクリート造の堅個な建物となっています。


内部から見た光景は、加計呂麻島や遠く徳之島、東シナ海を一望できます。
大戦中は大型の望遠鏡が中央台に設置されていたとのこと。
前の窓から敵艦や敵機との距離や方向などを測定して、電話で山中の砲台に連絡をして攻撃をさせるという仕組みがとられていました。



窓の上部に描かれた絵図は、実際の景色と合わせてみても緻密に描かれていますね。
それぞれ島々までの距離が記入されています。

江仁屋離、加計呂麻島、請島



赤瀬、ワレ瀬、須子茂離、夕離、与路島



曽津高崎灯台



大正期に造られた建物は、鉄筋が使われています。
さらに、化粧壁が施されているのも特徴的です。

以前ご紹介した調査地では、鉄筋の代わりに木材が使用されていました。
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この観測所から離れた場所『池堂【イケドー】』に、
雑草や木々に覆われひっそりと『陸軍兵舎跡』や、『弾薬庫』、『砲台跡』などが残存しています。

『砲台跡』 *今回の調査では雑草に覆われ確認できませんでしたので、以前のデータを使用しました。



『弾薬庫』



昭和20年、西古見の武装解除時の記録には、
『繋船場跡』から砲弾を海中投棄するため、船に積み込んでいる様子が残されています。



『陸軍兵舎跡』



文献資料等を手に、一つずつ戦争遺跡を調査してみると、
建物の役割や他施設との関連が見えてきそうです。


奄美大島で『戦争』が、起こった事実を
どのように、そして、どこまで伝えていくことができるのか?


まだまだ調査は手探り状態ですが、
膨大な資料と照らし合わせながら、
今後も現地調査を進めていきたいと思います。



2014.09.09
瀬戸内町立図書館・郷土館
埋蔵文化財調査員 正 智子