久根津とクジラのかかわり

2012年12月12日 | 関連する集落:久根津
瀬戸内町、久根津(くねつ)の入口で出迎えてくれるのが
クジラのレリーフ。



「くねつおおはし」と名前のついた橋の、両側の欄干についています。



ここ久根津は、瀬戸内町の中心部・古仁屋から15分弱のところ。

かつて奄美唯一の捕鯨基地があった集落で、
現在は、養殖業などが盛んに行われています。

こんなふうにクジラが使われているということは、
集落と関わりが深いことが分かりますね。

先月開催された「シンポジウム奄美のイルカ・クジラ2012」の発表
『奄美の捕鯨史』(町健次郎氏)では、久根津集落の話を中心に進められました。


▼集落を見渡せる高台にある久根津大橋




その久根津と、捕鯨の歴史をまとめてみました。

久根津集落で捕鯨が行われていたのは、大きく分けて3回。


① 【大正元年~大正10年(1912~1921年)頃 】

② 【 昭和20年代 戦後~本土復帰前後 】

③ 【 昭和36年~昭和40年(1961~1965年)頃 】


捕鯨会社が正式にあったのは①大正と③昭和30年代。

集落の方の話によると、
②の昭和20年代、戦後から本土復帰前後は歴史的資料には記述がありませんが、
密航の捕鯨船が来て3年ほど自由にクジラを獲っていたそうです。
この時代は贅沢にクジラを口にできた”いい時代”で、集落はとても潤ったそうですが、
地元の漁業者との関係で撤退したとのこと。
このときのお話はとっても面白かったので、またあらためて紹介します。

 * *


捕鯨会社があったそれぞれの時代の様子を詳しく追ってみましょう。


① 【大正元年~大正10年(1912~1921年)頃 】

◆明治44,45年(1911、1912年)ごろ
大島近海でクジラの群れが回遊するのを有望と考えた
日本東洋捕鯨株式会社(本社:大阪)が瀬戸内町の各地を調査開始。

候補地として、加計呂麻島の伊子茂など2,3ヶ所を計画したが、
交通や通信の便を考慮して、久根津に決定。

久根津が選ばれた理由は、
集落のかたの推測によると
・北風の強い集落で、古仁屋などより気温がいくらか低い。
冷蔵庫がない時代の腐敗防止で選ばれた
・海が落ち込んだ地形のため、大きな船が入港できた
のではないかとおっしゃっていました。


◆大正元年(1912年)
11月 事業を開始。
場所は、久根津の親田原(現在の「民宿よーりよーり」周辺)。

◆大正2年(1913年)
3月 捕鯨会社施設は火災により全焼。
外浜(現在の「奄美養魚」周辺)に移転。

◆大正10年(1921年)ごろ
本格的に操業していたのは、この頃まで。


▼大正元年、最初に解体処理工場が建てられた親田原は、
左の海に突き出ている、現在の民宿「よーりよーり」があるあたり。



◎解体処理工場の様子

久根津の海辺の広大な敷地(敷坪数三反あまり)に「鯨体処理工場」を建設。
大正元年に親田原に、大正2年に外浜(現在の奄美養魚)に移転。

工場は蒸気機関を備え、巻揚機でクジラを引き上げ解体処理。

鯨肉の冷凍、皮の塩加工、鯨油取り施設、肥料化工場も併設。
当時としては最新の設備だった。

長崎、五島、山口方面より70人あまりの解体夫を雇用。


▼大正2年に解体処理工場が移転した外浜。現在は養殖会社の「奄美養魚」がある(写真右奥)。




◎捕鯨船

レックス丸、第一太平丸、第三捕鯨丸が毎年2,3隻来港。
主に、南太平洋、奄美大島沖合に出漁し、
大漁の時は一日4,5頭の漁獲もめずらしくなかった。

キャッチャーボート(約100トン内外)三隻には、
優秀な技量のノルウェー人が砲手として乗り込み、
徳之島近海で一日に多い時はマッコウクジラ9頭を捕獲。

集落誌に余談が載っていました。
このノルウェー人の砲手、名前はセコントルさん。
集落の人たちも青い目の西洋人にお目にかかるのは始めてだったよう。
言葉は通じなくても子どもたちとよく遊び、
一銭二銭のお金を投げて、子どもたちが拾う様子を見て喜んでいたそう。

日本人の射撃は世界一と言われていたが、
「鯨を撃つと、子孫に祟りがある」とまことしやかに云われ、
ノルウェー人の砲手を雇い入れているという話があったようです。

 

▲現在の「奄美養魚」の敷地。このあたりに、巻揚機があり鯨を引き上げていたとのこと。
いまはその器具などはなにも残っていない



◎久根津集落のにぎわい

捕鯨船が外洋でクジラを捕獲し海峡内へ入ってくると、
基地に知らせるために古仁屋沖で汽笛を3回大きく鳴らす。
それを聞いて、古仁屋など他集落からも久根津へ見物客などが大勢押し寄せた。

さん橋でクジラを処理をする時は、
見物人がやってきて好奇の目で見ていたそう。

人が多く集まったことから、鯨骨・鯨歯などの細工を売るお土産店や食堂、料理屋が密集、
また鯨の臓物などを用いる肥料加工場なども他の商人の手により建設されるなど、
集落始まって以来の活況となった。



◎久根津の人々の生活の様子

工場の操業は毎年11月~翌年の3月頃まで。
捕鯨会社が操業を終了し捕鯨船が引き上げる際に、
集落の若者たちが全員志望して船に便乗し、本土へ出稼ぎ。
送金などもあり、久根津は大きく潤ったという。

集落に残った若者たちは、農業のかたわら季節雇いとして
鯨肉の加工や肥料の製造に従事し、相当の現金収入を得た。

集落は工場が親田原より外浜に移されるまでの間、
捕鯨会社より金200円相当(昭和63年当時の通貨にして約200万円)を収入として得ている。


●昭和20年(1945年) 
3月 第二次大戦も終末に近い3月、解体処理施設(長屋)はグラマン機による空襲を受け全焼。
久根津集落自体が大きな被害を受けた。
施設は軍事施設と間違えられたのではないかと言われている。


 

▲クジラ解体処理に使われた包丁(瀬戸内町立図書館・郷土館所蔵)。
刃渡り約45センチ、本来は柄が約2~3メートルあり、
高い位置の処理に使ったとみられる


 * *


戦後の本土復帰前後、密航の捕鯨船が来ていた時代を経て、
昭和30年代になって捕鯨が再開されました。

③【 昭和36年~昭和40年(1961~1965年)頃 】


◆昭和32年(1957年)
2月 第一八龍丸(29トン)、丸良丸(29トン)
大島~徳之島間で鯨2頭(10メートル級)仕留める。
           
4月 古仁屋港数百メートルで沖でミンク鯨を捕獲。

9月 大島近海で小型捕鯨を計画。瀬戸内漁協と北洋水産提携企業認可申請。

◆昭和34年(1959年)
4月 捕鯨漁業などについて、瀬戸内漁協総会を開く。

◆昭和36年(1961年)
12月 捕鯨事業許可される。瀬戸内漁協新年明けから操業、久根津に鯨体処理場。

◆昭和37年(1962年)
2月 瀬戸内漁協の捕鯨操業開始。1ヵ月目に初獲物重さ6トンのシャチ。

◆昭和37年(1962年)
4月 瀬戸内漁協総会捕鯨事業の継続を決議

◆昭和37年以降
瀬戸内漁協の取り組みの記録もなく、
また環境保護団体などによる捕鯨禁止運動もあって、取り組むものがいなくなる。

◆昭和40年(1965年)頃
高知県から捕鯨船団(5隻)を誘致、瀬戸内町を根拠地として操業したが、
約3ヵ月で事業を中止して引きあげた。「生産が伴わなかった」と元漁連職員は語っている。


 

▲クジラの脊椎(瀬戸内町立図書館・郷土館 展示品)


資料によっては「昭和36年まで捕鯨事業が行われていた」というのもあり、
昭和30年代に捕鯨が再開したときは、
それほど機能していなかったようです。

どうやら久根津が捕鯨でにぎわっていたのは、
大正時代と、密航船がきていた昭和20年代奄美群島の本土復帰前後。

何メートルもの大きなクジラが引き上げられ解体される様子など、
テレビも他の娯楽もなかった大正時代、
どれだけの見物客が押し寄せ、賑わったことでしょうね。
とくに密航の捕鯨船が来ていた時代の話は
ジブリ映画の世界で再現されたら面白いんじゃないかなーと思いました。

捕鯨基地があった時代を知るかたが少なくなっていますが、
運良く集落のかたにうかがった思い出話などを
またあらためてご紹介いたします。


 

▲クジラの肩甲骨(瀬戸内町立図書館・郷土館所蔵)。大人の男性が横に座ってもこの大きさ!

 

▲久根津大橋のところから、大島海峡内にクジラを見つけられたら最高でしょうね



< 参考文献 >
・「わきゃあ島 久根津」(久根津集落誌)
・「瀬戸内町誌 歴史編」
・「奄美のクジラをめぐる歴史民俗」(町健次郎)






瀬戸内町 久根津

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内